人的資本データマネジメントの課題
目次
1. 人的資本データマネジメントの重要性の高まり
2022年の人的資本の有価証券報告書開示義務化以降、日本において人的資本データの重要性が急速に高まっている大きな理由は、人的資本のデータ活用が企業価値向上に直結する“経営課題”となっているためである。その背景として、以下の3つのメガトレンドが挙げられる。
① HRテクノロジーの進化とデータ量の増大
2010年代よりHRテクノロジーが急速に進化し、企業における人的資本データ量・種類が飛躍的に増加している(例:従業員の勤怠データ、パフォーマンスデータ、学習履歴 等)。
その結果、人的資本のデータ可視化範囲が広がり、従来の直感や属人的な経験に頼る“昭和型”の経営から、データドリブンな人的資本経営が可能となっている。
➁ 人的資本開示義務化とその影響
国内外の投資家の間で、”企業価値の源泉”は人的資本にこそ存在している、との認識が広がっている。企業経営者は投資家が強く関心を寄せる人的資本の取組みについて、可能な限り“数値と客観的事実”に基づいた人的資本経営を実践し、対外的に説明する必要性が高まっている。
③ 人的資本を含む非財務情報の第三者保証の動向
欧州では、2024年より人的資本を含む非財務情報の第三者保証が義務化された。
※ 義務化対象企業:EUにおいて従業員数が500人以上の上場企業又は従業員数500人以上の金融機関
これは、投資家を含むマルチステイクホルダー向けに開示されている人的資本データを含む“非財務情報”の信頼性を高めるための動きであり、日本でも、金融庁が数年後の本制度導入に向けて、2024年4月より検討を開始している。この第三者保証制度が導入されると、日本の上場企業は“財務情報と同等レベル”のデータの正確性と堅牢性が、“連結ベース”で求められるようになることが予想される。
以上より、特に、グローバルに事業を展開し、連結グループ企業を複数抱える上場企業においては、人的資本データマネジメントのためのIT基盤整備が急務となっている。
2. 日本企業の人的資本データマネジメントにおける4大課題
人的資本調査(図1参照)の結果、2023年秋時点で上場企業の多くが人的資本データマネジメント基盤の整備が遅れていることが明らかになった(図2参照)。
すなわち、それらの企業においては、人的資本開示用データ集計を行う際に、依然としてExcelなどの手作業に依存しており、データの収集一元管理が困難な状況にある、と推察される。このような状況では、データの正確性や即時性が担保されず、社内的には経営上の意思決定を誤るリスクが生まれ、対外的には開示内容への信頼性が失われることに直結する。
このような整備の遅れが目立つ企業の人事部門には、以下のような構造的な課題が横たわっていることを指摘しておきたい。
① データ収集と蓄積の課題
HR領域に数多くのクラウドサービスが普及した結果、人的資本データの種類が多様化し、収集・蓄積における課題が顕在化している。例えば、大手企業の例では、従来の従業員の勤怠データ、人事評価データ、スキル情報、教育履歴、異動履歴に加え、数年前からエンゲージメントサーベイを実施する等、複雑かつ多様なデータが存在するようになった。
これらのデータを効率的に収集し、統合するデータ基盤が整備されていないため、データを部分的に繋ぎ合わせて分析するにとどまっており、データの質を継続的に維持することは困難な状況であった。
➁ データの標準化(=正規化)の課題
データの標準化に関する課題は深刻なレベルにある。前項の企業では、従業員基本属性データ(人事マスターデータ)を収集保管・更新する人事基幹システムの他、労務管理システム、エンゲージメントサーベイ等の各領域ごとに異なるデータ形式、項目定義が存在し、データの標準化は未実施であった。そのため、人事部門では、複数領域にまたがる人的資本関連データの統合作業に多くの負荷がかかっていた。
③ データセキュリティの課題
人的資本データは個人のセンシティブな情報が多く、高い機密性が求められるため、社内向けには情報アクセス制限の厳格化が、そして対外的には高度なセキュリティ対策が必要不可欠である。
しかし、前項企業の場合、人的資本データは、複数のクラウドサービスに分散して存在しており、それらを部分的または全体的に統合管理する上で、多くの企業がデータセキュリティに十分な投資を行っていないのが実情である。
その結果、非常にセンシティブで機密性が高い人的資本データの社外への情報漏洩リスクが高まっている。
④ データ運用面の課題
人的資本経営のデータドリブン化を実現するために、多くの日本企業でHRテクノロジーを活用した様々なクラウドサービスが導入されている。多種多様な人的資本関連データを統合した後の運用面の課題として、人事部門における「可視化」スキルの不足が挙げられる。
可視化スキルとは、人的資本戦略KPIやモニタリングすべき指標を特定するソフトスキルとモニタリングを行うためのデータ正規化スキルの2種類のスキルから構成され、いずれも従来の日本企業の人事部門スタッフに不足していることが多い。
結果として、データ可視化の手段がエクセルに限定されてしまい、人的資本経営の施策の効果検証や改善にデータを活かすには甚だ不十分なレベルとなっている。
3. 人的資本の可視化とデータ管理の重要性
日本企業の人的資本経営における意思決定は、これまでは主観的な判断や個人的な経験に依存する形で行われることが多かった。2010年代以降、HRテクノロジーサービスが進化・普及し多種多様なデータが生成されるようになったことで、人的資本経営の様々な打ち手においてデータに基づいた効果検証を行うことが可能となっている。
人事部門は、このような人的資本データ管理を高度化するためのIT基盤を整備することにより、価値向上とリスク低減の両面において経営的にインパクトのある成果をもたらすことができるようになる。
① 人的資本データの可視化と企業価値との関係性
企業が人的資本データを収集・蓄積し、それを可視化・分析・開示するプロセスは、経営において極めて重要となっている。まず第一に、人的資本経営のデータドリブン化を実現することで、経営マネジメントの透明化が進み、数値に基づいた科学的な意思決定が行われるようになる。すなわち、データ分析を通じて、自社の強みや弱点を正確に把握でき、より効果的な適材適所と人的投資を行うことで人的資本経営品質が向上する。
次に、人的資本の開示内容の質が向上する。2022年の法令改正により日本の全ての上場企業に人的資本開示義務が課されたため、投資家は人的資本開示内容に“質の高さ”、すなわち数値を交えた説明力の高さを強く求めるようになっている。企業側で人的資本経営のデータドリブン化が実装・運用段階に移行していれば、人的資本の取組みについて、数値を交えて社内外に説得力の高い内容で開示できるようになる。
以上より、人的資本の可視化は企業価値の向上に直接つながる有力な経営施策として位置付けられる。
➁ 人的資本経営にデータインテリジェンスを活かす
HRテクノロジーの発展により、収集可能な人的資本データの範囲は急速に拡大している。従業員のパフォーマンスデータに加え、エンゲージメントやリーダーシップスキル、さらには健康データまで、さまざまな情報を収集できるようになった。これにより、より複雑かつ高度な分析が可能となり、データインテリジェンスレベルが向上している。
例えば、以下のようなテーマで具体的な応用が進んでいる。
[人材配置と公平性の評価]
従業員に対する教育投資の分配の適切性と投資対効果を定量的に分析することで、公平性の確保と人材配置の最適化を実現する。
[人的資本KPIモニタリング]
従業員の生産性、業務上の成果等のKPIスコアを向上させることを目的に実施している各種施策について、財務情報と人的資本情報を統合・可視化し、KPIに基づいてモニタリングし、プロセスと結果の両面から施策の有効性を評価・改善する。
[人的資本と財務データの統合]
人的資本データと財務データを統合することで、生産性やコスト効率を可視化し、戦略的な人的資本の配置が可能となる。
4. まとめ
これまで日本企業における人的資本経営はブラックボックス化され、勘と経験で行われることがほとんどであった。しかし今後は、人的資本データマネジメント基盤を整備することで、人的資本の可視化と人的資本経営におけるデータドリブンな意思決定が可能となる。
この新たな経営インフラを駆使することで、人事部門は“価値向上”と“リスク低減”の両面で経営が求める成果を上げ、積極的な開示を通じて企業価値の向上に貢献できるようになる。